くしゅんっ!

 そう盛大なくしゃみをしてから、雛森は涙目になった目を軽く擦った。
 やはり風邪なのだろうか。そう思って、雛森は溜息をついた。
 風邪で倒れては大変だからと、最近は仕事は少なめにしてもらって早く帰って適度に体を休めていたのに、熱まで出てくる始末だ。一体何が悪かったというのだろうか?
 そこまで考えて、また雛森は小さくくしゃみをした。

 だるい。苦しい。

 そんな単語が頭をぐるぐる回る中、ふらふらとおぼつかない足取りで前に歩いていった。
 とりあえず部屋に帰って、四番隊の人には悪いが部屋に来てもらう事にしよう。そう決めたは良いが、それよりも部屋に行くまで倒れずに済むかの方が問題のようだった。

(ここからじゃ、結構遠い…よねぇ。)

 長い廊下を見て、もう一度雛森は溜息をついた。
 徐々に一人では立てないようになってきて、壁伝いに四苦八苦しながら前に進んでいった。
 あと何度角を曲がるんだったか、それすらも思い出せない程に頭痛が激しくなってきた。

「何やってんだ?」

 唐突に後ろから聞こえた呆れた声に驚く力もなく、雛森はそっと振り返ると、其処には予想通り日番谷が立っていた。

「うわ!すげェ顔真っ赤。大丈夫か?」
「うん、大丈夫。」

 そう言ってヘラヘラと笑いを返すと、日番谷の顔が険しくなった。どうやら安心させるつもりが、余計に心配をかけてしまったらしい。

「負ぶっていってやるよ。」

 そう言うと、日番谷は半強制的に雛森を背中に乗せた。

「え、ちょ、良いよ!重いし!」
「軽すぎるくらいだっつーの。」

 慌てて何かしら言葉を返そうとしたが、熱を持った頭では他に言葉が出てこなかった。

(嗚呼、くらくらする…)

 そのだるさに、雛森は申し訳無いと思いながらも体の力を抜いた。

(日番谷君の方が小さいくせに)

 こういう時だけ頼りになるのは、やはり男の子だからなのだろう。ぼぅっとした頭の中で、ずるいや、と雛森は考えた。
 ゆらり、ゆらりとやさしく揺れる温かい背中におぶられていると、睡魔が襲ってきはじめた。

「寝ていいぞ?」

 まるで雛森の心を読んだかのような日番谷の言い出しに、驚いて首を振ろうとしたのだけれども、優しい温かさはさらに夢へと誘っていた。
 重い瞼を開いている自信も無くなって、その言葉に甘えさせてもらう事にした。

「…ごめんね。」
「別に」

 そう彼がぶっきらぼうに返してくれることがくすぐったかった。



 多分、否、絶対。彼だけだろうと思う。

 これからずっと先も、彼以外の背中に背負われる事も無く
 彼以外の背中で寝る事も無いだろう。

(温かい)



 雛森がすやすやと寝息をたてはじめた事に気が付いて、日番谷は複雑そうに視線を宙で遊ばせた。
 これは信頼されているのだろうか。それとも、異性対象外という事なのだろうか。
 そんな事を考えている自分が情けなくて、そっと溜息をついた。

「…まァ、良いけどな。」

 少し口を尖らして言った独り言に、もう一度自分で溜息をついて、日番谷は歩を進めた。











「ふぇ…。」

 目を覚まして真っ先に入ったのは、自分の部屋の天井だった。
 ぼぅっとあたりを見回すと時計が目に入り、何時間も寝ていた事をやんわりと理解させた。

(うわぁ、どうしよう…。)

 また隊員と隊長に多大なる迷惑をかけたのかと思うと情けなくなり、また視線を泳がせた。
 当然のようにもう居ない彼の姿をつい探してしまっている事に気が付いて、雛森は更になんだか情けない気分になった。
 隊長が…しかも、別隊の副官なんかに時間を割ける筈は無かった。
 それでも、そんな事はおかまいなしに風邪の時には人肌が恋しくなる。

「ヒツ…がや…くん」

 居ない筈の人の名前を呼び、帰ってくる筈のない返答を待つ。
 それが余計切なさを掻き立てるというのに、それでも呼ばずにはいられなかった。



「呼んだか?」
「ふあぇあ?!」

 返って来る筈の無い返答が、さも当然のように傍から聞こえて、雛森は枕元を見上げた。
 其処には確かに、居るはずの無い彼の姿があった。

「何時もながらに変な奇声だな。」
「な、な、ひ、日番谷君?!」
「俺以外の誰に見える」
「何で…ど、何処に?」
「台所に。粥、作ってた。」

 用が無いなら戻るぞ、と言ったそのぶっきらぼうな声には、優しさと照れが見え隠れしていた。

「食えそうか?」
「う、うん…」


 空気が違う。そう、雛森はおぼろげに思った。

 彼が居る。
 ただ、そう思っただけで。


 あたたかい。


 もう、視線が宙を泳ぐ事はなかった。
 確かに視点を見つけたから。
 彼の背中を見つめながら、雛森はやんわりと微笑んだ。時折聞こえた「熱ッ!」という声は、聞こえない事にしてあげながら。

 それから何分が経っただろう。
 日番谷が鍋を少々不器用そうに雛森の傍へと持ってきた。

「あんまり美味くは無いと思うけどな。」

 そう言いながら、少し不安そうな顔で日番谷は蓮華で掬った粥を雛森の口元へと持っていった。
 雛森の喉はすぐにはそれを受け付けなかったが、ゆっくりと社稷しているうち少しずつ胃の中へと入っていった。
 日番谷が未だ不安そうな顔をしているのに気が付いて、雛森はゆっくりと答えを返した。

「美味しいよ。」

 自然と笑みが零れていた事に、雛森は気付いてはいなかった。

「…そりゃ、どうも。それ、食べ終わったら寝とけよ。…藍染には、俺が言っておくから。」
「うん。ありがとう…ごめんね、迷惑かけちゃって。」
「別に。」

 雛森がゆっくりと粥を食べ終わるまで、日番谷は隣でじっとしていた。
 雛森には、それが酷くくすぐったくて嬉しかった。
 ごちそう様でした、と手を合わせて横になると、日番谷が鍋を持って台所に行こうと立ち上がった。
 ふと思い出したように雛森を見下ろして、日番谷はまたぶっきらぼうに言葉を落とした。

「…おやすみ。」

 温かい言葉だ、と雛森は思った。

「…おやすみなさい。」


 そっと、優しく夢の中へと引き込まれてゆく感覚がわかった。


 鍋に水を張ってから戻ってきた日番谷は、雛森が確かに寝ている事を確認して深く溜息をついた。

「…好きなヤツにかけられた迷惑は、迷惑って言わねぇんだよ。」

 そう、本日二度目の独り言をして、一人頬を紅くしてからがしがしと頭を掻いた。
 ついでだから、あと三日ぐらい休暇をとってしまおうか。
 休養という名目で。

 二人で、何処かへ。

 そんな事を考えてから、日番谷は優しく雛森の髪に触れた。