「莫迦ッ!」

 お決まりの 予想通りの罵声に日番谷は顔をしかめて小さな溜息をついた。
 深い刀傷の刻まれた左肩をさすると やんわりとピリピリとした痛みが疼いた。

 傷なんかよりも何よりも 本当はその罵声に堪えているのだが。

「何であんなこと…したのよっ…!」

 まるで 助けてなど欲しくなかったと言うように雛森はひたすらに罵り続けた。

「莫迦 莫迦 莫迦 莫迦 莫迦 莫迦っ…!」

 とは言っても実際に彼女の口から出される罵声という罵声は『莫迦』という一単語に限られている。
 他の罵声を一切聞いたことは無かった。多分それ以外の罵声を知らないのだろう と 日番谷は思っている。

「莫迦莫迦莫迦莫迦莫迦莫迦莫迦…」

 息を切らしながらも続けられるその罵声に流石に耐えかねて 日番谷は少し棘の入った声で静止の言葉を発そうと口を開いた。

「雛も」
「莫迦っ!」

 一言大きな罵声が飛んで 日番谷の台詞は見事に遮られた。
 しまった このパターンは。
 そう日番谷が後悔した時には既に遅く 雛森の紅潮した頬の上をぽろぽろと涙が伝っていた。

「もしっ…死ん じゃっ てた ら どう すん…のよォっ…!そうしたら そうしたら…っ!」

 −もう二度と 会えないじゃない

 切実な想いが込められたその台詞に 日番谷は思わず絶句した。言い返す言葉などみつかるはずもなく 顔を動かさずに目だけであたりを見回した。
 質素な病室には何も目に留められるものがなくて 結局日番谷の視線はしずしずと顔を俯かせている雛森に再び戻る羽目になった。
 何か言葉をかけなければいけないという強迫観念にも似たものに駆られ 日番谷は再び口を開いた。

「…ひなも」

 そしてその台詞は 再び半端に終わることになった。

 ぱんっ という威勢の良い音に阻まれて。

「なっ…」

 何が起こったのか理解が一瞬出来ずに 日番谷は二三度瞬きをしてじんわりと痛みのせいで熱を持ち始めた頬を押さえた。
 雛森はぎろりとその濡れた大きい瞳で日番谷を睨みつけると 勢い良く立ち上がり それまた勢い良く襖を開けて勿論勢い良くそれを閉めた。
 勢い良く閉まった襖がパンッと音を鳴らすのを呆然と見守ってしまった後に 日番谷は慌てて布団を剥いで立ち上がった。
 くらりと貧血で目眩がしたが そんな事を気にしている間では無い事は重々承知しているつもりだった。

「待て 雛も…」

 襖を開けて叫ぼうとした時に 廊下が見える筈の位置に胸があり日番谷は思わず硬直した。
 ばっと上を見上げると 昼飯をお盆に載せてぽかんとした顔をしている部下の顔が目に入った。

「…松本」

 ややこしい事になりそうだ。何故か直ぐさま日番谷はそう思った。
 …そして勿論 その予想は期待を裏切って当たった。

「隊長!雛森に何やったんですか?!あの子泣いてましたよッ!」

 物凄い剣幕に一瞬たじろいでから 日番谷は何でもねぇよ小さく呟いたが 松本は聞く耳を持たずに一人で喋り始めた。

「まさか…!まったく 手が早いというか何というか…!まだ早いに決まってるでしょう!」
「…お前 何の話してる?」

 呆れる時間も惜しいというのに 定例のように日番谷は溜息をついて見せた。
 駄目だ このノリに巻き込まれている。日番谷は軽く首を振ってから 気合いを入れ直し松本を見据えた。

「雛森はどっちに行った?」
「向こうです。部屋に戻るんじゃないですか?早く謝った方がいいですよ。」

 誤解を解く時間は勿論 当たり前だと言葉を返す時間も惜しくて日番谷は走り出した。
 一歩進む毎に 傷口に鈍く響いたが 気になりもしなかった。

 十番隊隊長補佐室の部屋の前まで来て襖に手をかけてから 一瞬日番谷は躊躇った。
 本当に部屋に居るのだろうか?
 居たとしても 何を伝えれば…
 そう悩み始めたその時 襖越しに小さな啜り声が聞こえた。
 その瞬間日番谷の中の雑念は全て消え去った。

 彼女を泣きやませる事が 何よりもの最優先

 悩んでいる暇などない。

 躊躇いもなく日番谷はその襖を開ける為に力を入れた。


「入ってこないで!」


 悲鳴に近い雛森の声が飛んできて 日番谷はびくっと襖から手を離した。
 幾度と無くこの手の喧嘩もくり返していたが 入室を拒まれる事は初めてだった。
 日番谷は戸惑いと混乱に襲われた。

「…雛森?」

 出た声は 予想よりずっと情け無い声だった。
 自分は怯えているのだ。彼女に嫌われる事を。彼女に拒絶される事を。
 そう自覚した瞬間 軽い嫌悪に襲われた。己がいくら蔑まされようとも 彼女を泣かせないと決めていた筈なのに こういう時に揺らぐ自分が許せなかった。

「…雛森」

 二度目の呼びかけに やっと反応が返ってきた。
 酷く掠れていて 聞き取りづらい程小さい声だった。

「死んじゃったら…一緒に お喋り出来ないんだよ。」
「…ああ。」
「一緒にお祭りに行けないし 星空も眺められないし お誕生日もお祝いできないし…」
「そうだな」
「…それでも…日番谷君は良かったの?」

 ぐすっと雛森は鼻を啜った。
 襖越しに聞こえる ひっく ひっくという啜り泣きは酷く頼りなくて 壊れてしまいそうだった。

「ごめん」

 それが 日番谷に言えるたったヒトツの言葉だった。

「ごめん。」

 ぐすっ と もう一度雛森は鼻を啜ってから 小さく応えた。

「ばか。」
「ああ」
「…そんな事言われたら 許さないわけに いかないじゃない」
「知ってる」
「…ばか」
「うん。」
「分かってるの?」

 雛森の声がもう一度頼りなく揺れた。

「幾ら 日番谷君が代わりに傷付いたって」

 左肩の傷が 優しく疼いた。

「おんなじぐらい あたしの心は傷付くんだよ」
「…お前が傷付いたら それだけ 俺の理性は崩れてく。」

 今度は日番谷の声の方が幾分も頼りなかった。

「日番谷君が死んじゃったら!」

 雛森はいくらか語気を荒げたかと思うと 再び今にも崩れそうな泣き声で言葉を続けた。







「あたし 死んでるのとかわんない」







「…俺も だよ」

 だから 無理してでも庇いたくなるんだ。そう返した日番谷の声は掠れていた。

「…入って いいか?」

 その問いの後 少しの沈黙が流れた。それは嫌なものではなくて 寧ろ優しさを含んでいるものだった。

「…うん」

 小さな消え入りそうな返事を耳に入れてから 日番谷は襖を開いた。
 雛森は背中を向けて蹲っていた。日番谷も敢えて彼女の顔は見ようとせずに 後ろで襖を閉めると 雛森と背中合わせになるように座った。
 何時も 喧嘩の後の謝り合いの時の恰好だった。

「…無理したら あたし 何度だって怒るからね。」
「無理させないように精々頑張ってくれよな」

 日番谷の何時もの調子の憎まれ口に 雛森はくすりと笑い返す。
 慣れ親しんだ仲直りの合図だった。

「…いくらお前が怒ろうと 俺は止めないから。テメェが危なくなったら 俺はお前を守る。」

 雛森は暫く沈黙した後に しっかりとした口調で答えた。

「あたしが死ぬまで 死んだら駄目だよ。」
「…死なねェし 死なせねェよ。」

 そうだ!と 雛森は名案を思い付いたといわんばかりの声をあげて 満面の笑みで日番谷を振り返った。

「ねぇ いっせーのーでで死のうよ!」
「…なんだそりゃ」
「そしたら二人同時でしょっ?」
「あー…山元のジジィぐらい生きてから な。」





 それは小さくて強い誓い。

 何にも代え難い 指切りの記憶。



 たった二人だけの 約束事。