「嗚呼、そうか。」

 ふと、その銀髪を携えた男は顔を上げた。
 細い髪が、さらりと揺れて光を受ける。
 一体何が『そうか』なのかと、乱菊が訝しげな目線を遣ると、彼はいつものように微笑んだ。

「今日は云うてなかったな。」

 ぷい、と乱菊は顔を逸らして書類へ目を落とした。
 こういう時、このの男は相手にしない方がいいと経験上知っているからである。

「愛してるよ。」

 まるで、寒いと呟くかのように。今日は晴れやね、と問い掛けるように。おなかが減った、と訴えるように。
 あまりに自然に、あまりに普通に、あまりに…簡易に、ギンはその言葉を放った。
 何が今日は云うてない、だ。そう乱菊は思う。
 一年に一回だろうが云わない言葉を吐いておきながら。

 日常茶飯事、という言葉がある。日常、茶を飲むように、飯を食べるように当たり前にある事。
 正にそれに当てはまる、と乱菊は思った。唐突に在り得ない事を云われることは、もう日常茶飯事なのだ。

 だから、動揺などすることはないのだと。


 目頭がこんなにも、熱くなる必要などないのだと。


 その動揺をも見透かすように、ギンは微笑んだ。
 軽蔑の笑みでもなく、優越の笑みでもなく。そして、優しい笑みでもなく。
 哀しいかな。長いこと共に居ると、その笑顔の真偽までなんとなくわかってしまうようになる。
 乱菊の頭がはじき出した答えは、『偽』だった。

 意味の有る嘘しかつかない人。
 意味の無い嘘もつく人。

 彼は明らかに後者である、と乱菊は知っている。
 知っているからこそ、あの初心い少女達のように頬を染めて喜ぶこともできず、こうやって宙ぶらりんのなかに居るのだ。
 そして、きっとこの嘘は、意味の無い嘘。
 そう半強制的に答えを出し、それから乱菊は口をひらいた。

「ええ、あたしもよ。」

 あたしの意味のある嘘を聞いて。
 そして掬い取って、その意味を。

 幾千回と繰り返された言葉の応酬。
 ふと、柔らかくギンは笑みを含んだ。

 その笑みには真偽のどちらが隠されている?
 いや、それ以前に何に対する真偽だ?

 普段自分より頭の回転の速いものと会話するというのは、遅い者と会話するよりも数倍楽で良いものだ。
 だが、この手の話は別だ。
 騙されきれないのが、余計に辛い。
 何処となく、何かを含んでいることに感づきながらもそれが何かがわからないのだから。
 いや、もしかすると態と「何かを含んでいるよ」というものを見せられているのかもしれない。
 どちらでも構わないが、どちらにしろ主に主導権を握るほうが楽な自分にとっては良い気分ではない、と乱菊は顔を顰めた。

「それじゃあ、御休み。」

 そう言いながら顔が近づいてきたので、接吻でもされるのかと動かずに待っていたら、唇が額に触れる直前でひょいと体を翻してしまった。
 一体何がしたいのだ。
 期待をしていたわけでもないのに、裏切られたようなもやもやとした気分で彼を一瞥した。

 その背中は、笑っているようで泣いているようだった。

















::後書き::
少し中途半端めに。