満月は人を狂わせる。
言い得て妙だと 日番谷はぼぅっと思った。
ざわりと水面が揺れる事すら 遠くの事に感じる。今自分が何処に居るのかも解らなくなるような感覚に襲われた。
まるで 世界が狂ってしまったように感じさせられる。
しかも その満月が今宵は血の色をしている。紅い月が俺を見下ろし くらり くらりと神経を麻痺させてゆく。
早く 帰りたい。
そう日番谷は思った。現世にこれ以上一時も居たくなかった。こちら側は時に異様に孤独を感じさせる。
それを察したかのように キャキャ と 耳障りな高い声を虚が発した。
『何故そんなに急ぐ?そんなにママの胸が恋しいか 餓鬼。それと』
中途半端に途切れた虚の声は 瞬時に悲鳴と化した。日番谷は虚の仮面に突き立てた刃を ぐるりと回して傷を広げた。
びちゃりと 頬に血が飛び散った。
「五月蠅いんだよ 糞餓鬼」
耳障りだ。
虚の声が 自分の声が。
目障りだ。
虚の姿が 自分の姿が。
嗅覚を掠める血の匂いに吐き気がした。頬を 手を伝う血の感触に悪寒がする。
全て 感じなくなればいいのに。
全て 全て
消えてしまえばいいのに。
地獄に送られた虚を見送りながら 小さく舌打ちをした。満月の夜の虚退治は気分を害す。今宵のような紅い月の日は尚更だった。
こんな日は 部屋で酒を呑むのが一番良いのに。そう思っても 満月の夜程虚の出現率が上がるのだから仕方が無かった。
全身が 汚れている。
全てを洗い流したいと望んだ瞬間に出てきた単語を 何も考えずに口にした。
「雛森」
その名前を何故口にしたのかは解らなかった。
全てを洗い流してくれる気がしたのだろう。全てを綺麗にしてくれる気がしたのだろう。
ほんの少しだけ 胸中にあった固いものが軽くなった。
耳障りの良い名前だと思う。何度でも口にしたかったけれども それ以上言うと名前が汚れてしまいそうで 下唇を噛んで喉で留めた。
狂ってる世界で
君の名前だけが 輝いている気がして。
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