「死にたい。」
何十年も傍にいて
彼から初めて その言葉を聞いた。
日番谷は机に肘を付いて右手で顔を覆った。
「…日番谷 君」
そっとその手に触れると つんと石鹸の匂いが鼻をついた。必死になって血を落とそうとする彼の姿が安易に想像出来て 雛森は余計に泣きそうになった。
「日番谷君」
お願いだから そんな事言わないで。上擦った声でそう言うのが精一杯だった。胸の中に残るしこりはなかなか外に出てくれなくて 苛つきが募る。
はぁと息を外に出してしこりを取りだそうとしたのだけれども もう少しの所で留まって。もう一度外に押しだそうと息を吸い込むと その吸い込むついでにしこりもまた胸の中へと逆戻りしていく。
その繰り返しはひたすらに続くように思えて 雛森はそのしこりを取りだそうとするのを諦めた。
「日番谷 君」
彼の痛みが 痛すぎる程解っているからこそ 雛森は彼の名前を呼ぶ事しか出来なかった。
「吐き出して 良いよ」
全てを受け止めてあげる事ぐらいしか 出来なかった。
微かに肩が震えた後に 酷く掠れた声が発せられた。
「あい つ さい…ご わら…ッて」
あまりにもその声が掠れていたので 雛森はおそらく水分をまともにとっていないのだろうと考えた。
吐き出してしまうから 飲みたくないのだ。それは彼女自身にも経験のある事だったので 余計に胸が痛むのを感じた。
飲まなくても 胃液を吐き出すだけなのに。
すっと立ち上がって 声の届く範囲にある給湯室でお湯を沸かし始めた。コンロの火を強火にすると そこから少し離れてまた日番谷の前に座った。
「うん」
それで と 子供をあやすように優しく雛森は続きを促した。
「ありがと て 俺 に 何で」
彼の顔を覆っている手が小刻みに震え始めたのが目に見えて解った。
「何で だと 思う?」
その質問は 何時しか彼が雛森にしたものだった。
彼女を庇った班員が死んだときに 取り乱した彼女に彼が低い声で言った台詞だ。
「何で だと 思う?」
区切りながら さらにハッキリとした声で雛森は聞いた。日番谷の指と指の間から 少し紅くなった目が覗いた。
「何 で?」
答えを求めるその声は あまりにも弱々しくて
彼が初めて見せた弱さが 雛森にとっては不謹慎でもくすぐったかった。
虚に取り込まれた部下を 斬ったのだ。
過去 十三番隊副官も類似した能力で命を落としたと 後になって藍染は話した。
日番谷にとっては 数少ない気兼ねせずに話せる話し相手の一人だった。
彼の双肩にかかったその羽織は 一枚の布であるにも関わらずあまりにも重すぎて。
その羽織を脱いで会話できた者を 羽織を着て斬らざる得なかったのだ。
「日番谷君に 感謝してたからだよ。」
当然の返答に 指の間から覗いた日番谷の瞳がぐらりと揺れた。
「何で」
何で 俺なんかに。
ぴぃ とやかんが音をたてたので 雛森はそっと日番谷に微笑んでから立って 火を止めた。茶葉を煎れて 早く味が出るようにと少し回した茶器を持って 日番谷の前へとまた戻った。
「ひなも り」
なぁ 何で と 上擦った声で日番谷は答えを強請るようにして聞いた。
運命も皮肉だと思わずにはいられない。
彼でなくてもよかったのだ。虚に取り憑かれるのは。
彼でなくてもよかったのだ。取り憑かれた彼を斬るのは。
自分でも。
「日番谷君はね 自分が死ぬのと 自分で大切な人を殺すのと どっちが良い?」
やっと色の出てきた茶を注いで 雛森は日番谷の前へと差し出した。
一度日番谷は要らないと首を振ったが 飲みなさい と 強要すると大人しく口に含んだ。
こくりと 喉仏が動くのが見て取れた。
こういう妙な時に ああ 日番谷君も男の子なんだなと思わずにはいられなかった。
「じぶ んが 死ぬの」
そっちの方が良い。
その回答はつまり 彼の代わりに自分が死にたかったという事を示唆している事は解った。けれども雛森は笑ってみせた。
「彼はね 自分で死ねなかったの。自分で喉を突き刺したいぐらい 自分を止めたかったのに 自分じゃ死ねないの。」
それがどれだけ辛い事かを解っているからこそ。
「だからね 自分を止めてくれた日番谷君に 感謝したの。」
当然の事でしょう?
そう問うと 日番谷は顔をまた両手で覆って 数秒遅れてから 小さくこくりと頷いた。
指先からこぼれ落ちた涙は 見ない事にしてあげようと 雛森は小さく思った。
運命は何時だって皮肉で
死にたい時に死なせてくれなくて
非情に生きろと命令をする。
だから私達は 傷付きながら歩き続ける。
傷付いた足を引きずりながら でも
支え合いながら。
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