そっと日番谷はその柱に残された痕をなぞった。
 幾つも刻まれたその線は、いつも荒々しい方が上にある。
 何時もその少し下にある、優しくてほそい線。
 かわりばんこに線をひくから、つまりは、細い方が日番谷の身長で、荒々しいほうが桃の身長をあらわしている。

「…懐かしいね」

 雛森がぽつりと呟いた。
 蔦が絡まりあったこの家で、共に過した日々を思い出す。

「…あぁ。」

 扉を開けると、ギィとあまり穏やかでない音がした。
 到る処が埃被り、軋み、悲鳴をあげている。
 おそまつなガラス張りの窓の向こうには、もう雑草で埋め尽くされている庭が見えた。

「ここで駆け回って遊んだんだねぇ」

 様々な記憶が蘇りは消えていく。
 花を踏んでは、哀しそうな顔をする小母のために、新しい花を自ら植えたものだった。

 一通りの窓を開け終わってから、二人は居間に戻った。
 コンロも何もかもがさび付いて、使い物にならなくなっていた。
 風が吹き抜けると、一々埃が舞い上がる。日の光が入ると、余計それは明瞭になる。

「…寂れちゃったねぇ。」

 寂しそうな声に、日番谷は遠くを見ながら応えた。

「住人が居なくなったからな。」

 なんとなく、お互い目を合わせる気にはなれなかった。
 確かに同じ時を共有したこの場所に、二人を繋ぎとめた楔はもう無い。
 幾度となく蘇っては消える泡沫の記憶の中に、必ず在る微笑む小母の姿。
 なんともいえない沈黙が流れながらも、幾時そうしていたろうか。

「…そろそろ行こうか。」

 雛森が口を開くと、日番谷は返事をせずに立ち上がった。
 扉を全て閉め、家に鍵をかける。
 本来ならば次の居住者に空け渡すべきなのだが、どうもガタがきている。
 変に崩れる前に、早めに取り壊しを行って建て直しを行う必要がありそうだった。

 バケツに区民共有の水道水を汲む。
 買ったばかりの真っ白い菊の花が、腕の中で揺れていた。

 墓標の前に立つと、ざわりと木々が揺らめいた。
 集団墓地には、いたるところに枯れた花が飾られていた。
 小母の前に飾られた古い水を捨て、墓標に水をかける。埃被った其れに、長く来れなくてごめんね、と雛森は小さく呟いた。

 一通りの掃除が終わり、菊を飾ると、二人揃って小母の前に立った。
 線香をどうしようか、という話にもなったが、今回は持ってこなかった。

 ぱん、と手を叩く。

 墓参りの礼儀云々はよく知らなかったが、手を叩くのは呼び鈴のようなものではないだろうかと思っている。
 少し話を聞いてくれないかと、彼女を呼び止めるように。

 じっと墓標を見つめながら、日番谷は手を合わせた。
 祈る時も、どんな時も、日番谷は目を瞑らない。目を見開いて、そして祈る。
 雛森は、昔からそれが怖かった。

 でも、今はなんとなくわかる気がしていた。

「日番谷君。」

 急に呼びかけられて、日番谷はきょとんとした顔をした。
 祈りの邪魔をするのは流石に無作法だったかと思ったが、今言わなければいけない気がした。

「目…つぶって、いいよ?」

 少し控えめのその声に、日番谷は僅かに顔を顰めた。

「…いいの。」

 すぅ、と雛森は思いっきり息を吸う。

「あたしが、こっちに居てあげるから。」

 ぎゅっと、雛森が彼の手を握った。
 日番谷の表情が、疑惑から驚愕に変わり、そして困惑になる。

「ひなも…り?」

 その表情の変化を見てとりながらも、雛森は言葉を続けた。

「離したりしないよ。…繋ぎとめてあげるから、だから…。」

 僅かに唇をとめ、日番谷の目を見る。
 藍色のその瞳が、酷く不安気に揺れていた。

「だから、おばあちゃんにお手紙残そう?」

 死者への語りは、まるで手紙のようだ。
 返事は返ってこないかもしれないし、待つこと以外相手が読んだかどうかを知る術はない。
 けれども、返事を心待ちにするし、何時か返ってくるとどことなく信じている。

 ぎゅ、っと日番谷が雛森の手を握り返した。

「…サンキュ。」

 にへら、と雛森は笑った。
 自分のしたことが照れくさかったのもあるが、彼が素直にそう云ってくれたことが、純粋に嬉しかった。

 ぎゅぅ、と雛森は更に彼の手を握り返した。

 彼の手は、まるで氷のように冷たかった。
 それでも、雛森はひたすら握り締めた。

 何時か、少しでも体温を別けられますようにと。



  拝啓 おばーちゃん。


  お元気ですか?

  あたしたちは、元気です。









::後書::

家?人?思い出?
一体人は何を遺すのでしょうか。