266.引っ越しの日
「それじゃあ、いってきます」
そう言って頭を下げた雛森を、憎しみを込めて睨み付けた。
裏切り者。
脳裏にあるのはその言葉ばかり。
「シロちゃん、夏休みとかは帰ってくるから、おばあちゃんのことよろしくね。あんまり迷惑かけちゃだめだよ。」
笑う彼女から視線を外した。
許せないと思う気持と、憎めないと思う気持が鬩ぎ合う。憎んでしまえ、と心に呟く。
そうすれば、全てがすっきりするじゃないか。
彼女に抱えられた荷物の少なさをみると、なんだか情けなくなってくる。
寮住いのためといっても、小脇に抱えられる程度の量しかないのは女としてどうなんだ、なんて毒づき。
苦しかった。喉が締め付けられる。
「二度と帰ってくんな、莫迦桃」
何度目かわからない嘘を、振り絞った。
彼女は、やっぱり笑っていた。
267.アンテナ
びびっ。
アンテナ、5本。
びびっ。
アンテナ、2本。
びびっ。
圏外。
あれ、と思って振り返ると、真後ろにいた。
「誰を探してんだよ?」
にやりと笑ったその笑顔に、負けたと素直に思った。
268.アルバイト
時給:50円
仕事内容:
あなたの隣にいること。
269.四重奏
うわんうわんと脳内に響き渡る蝉の鳴き声
じりじりと太陽が肌を焦がす音
夏バテをしてへたれている俺がつく溜息と
元気な君が笑いながら歌う唄。
今年の夏の、四重奏。
270.風邪をひいた日
莫迦だなあと、笑われた。
「莫迦は風邪ひかねえんだよ」
「夏風邪は莫迦がひくんだよ」
笑いながらもピシャリと返されて閉口する。
最近、やけに口がたつようになりやがって、なんて内心で愚痴を零す。
喉越しのいいものをと彼女が作った食べ物を無理に口に運ぶ。
まったく食欲は湧かない、が、美味かった。
風邪をひいた日の思い出は、悪い思い出よりもいい思い出のほうが、ちょっとだけ多い。
そんなことを思いながら、出来る限り冷静に見えるように冷茶をつくっている彼女の背中に声をかけた。
「うまいよ。」